明治37年日露戦争勃発前に軍債45万円を献納した功により、中国人として始めて叙勲された。叙勲を契機として日本国籍を得たことにより日本におけるビジネスは大きく発展した。
呉錦堂については日本国内においても華僑関係の本の中で多々紹介されています。“舞子の移情閣”「孫文記念館」が、かつて呉錦堂が別荘として建立した遺物であるということは、広く世間に知られています。「孫文記念館」は、2001年11月に国の重要文化財に指定されました。
「孫文記念館」に飾られた記念写真では、呉錦堂が孫文の隣に座り、その回りを神戸の財界人、著名人が取り巻いており、日中友好への寄与、商工業発展への貢献等、当時の歴史を雄弁に物語っています。
呉錦堂の実業家としての事跡を辿れば、神戸にて貿易商として成功した後、1909年虞洽卿と共に寧紹汽船会社を設立、1910年その寧紹航行維持会会長に選ばれ、その後、1918年温州府青田県の鉱山と舟山列島のタングステン鉱石の採掘権を取得、1924年には、三北同協会の名誉会長に推挙されています。

“舞子の移情閣”「孫文記念館」
また、呉錦堂が、巨額の資金を投入した漢陽鉄工場・漢治萍石鉄鉱石会社から成り立つ鉄鋼連合企業たる漢治萍石会社は、中国史上初の新型機械設備を導入した企業としても有名です。
呉錦堂の日本での事業は、海運、貿易、製造に分けることができます。1890年、資本金30万円で神戸において貿易、海運の会社「怡生号」を創立しました。1899年、住友と契約して石炭を中国に輸送しました。また、滝川辦三の「清燧社」と共同でマッチ販売を行っています。日露戦争開戦前に、当時のお金で45万円の軍債を提供しています。日露戦争の頃、呉錦堂は製造業に乗り出し、先ず紡績に投資し、ついで東亜セメントを創立するとともに日中の多くの企業に投資しました。そして1925年、呉錦堂合資会社の設立に至ります。
武昌蜂起の後、三井物産は日本政府と横浜正金銀行に対し、孫文に借款を提供して中華民国政府樹立を支援し、漢冶萍公司の日中合作の経営権取得を提案。これは中国興産株式会社設立計画の始まりでした。しかし、1913年の第二革命後、会社は中日実業株式会社と改名します(孫文らは不参加)。日本の外交資料館に保存されている文書は、中国興産株式会社と中日実業株式会社の中国側出資者の名前を明らかにしていますが、双方に呉錦堂が代表となっている義生洋行の名があります。
呉錦堂は、実業家として活躍する一方で、地域や郷土の発展、郷党の育成にも貢献しました。彼は、旧弊にとらわれず、斬新な考えを持って、教養を重視した在日華僑の教育を行うほか、出身地である慈渓に学校を建設して、郷土の子弟に教育を施しています。この学校は、今日も、かの地にあって逸材を輩出しています。

慈渓錦堂職業高校
生徒数 1800人
(男子:自動車関係 女子:紡績関係)
そして、帰郷した時に水害の悲惨な状況を見て実施した杜湖、白洋湖の堤防工事の経験を活かし、神戸神出村小束野の開拓に着手、灌漑用溜池と堤防を建設して山林60ヘクタールを水田に開墾しています。当時の溜池は、宮ケ谷池と呼ばれていましたが、入植者やその子孫によって、昭和32年、感謝と尊敬の証として “呉錦堂池”と命名され、現在も水を豊かに蓄えております。

2005年11月4日の“呉錦堂150年生誕祭”にて初披露されました。
中国共産党慈渓市委員会、慈渓市人民政府、政治協商慈渓市委員会、慈渓人民代表大会常務委員会、各々の代表を向かえた中、呉錦堂150年生誕祭は厳粛に行われました。
“呉錦堂研究”は約24万字にわたっており中国文史出版社から出版、三部で構成されています。